そううつユートピア

(どうも寝付けなかったので長い文章を書いてしまいました。寝ぼけているからかまとまりがないし汗ごめんなさいね^^;
では、もう寝ます・・・朝だけど(汗)

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躁うつ病の治療で一番問題になるものは何か、という疑問の捉え方は、本やメディアの一般化された考えと、実際躁うつ病者が感じていることとでは、大きなギャップがあるようです。

単純化している面もあると思いますが、躁うつ病の本などでは

1)病気を受け入れること

2)薬を飲み続けること

3)自己コントロールができること
(例えば躁・うつの前兆を意識し、抑えること、病歴・症状に対して自覚をもつこと)

などが、躁鬱病を治療するにあたって一番の問題のように書かれている気がします。逆に言ってしまえば、「自分が病気だと受け入れ、薬をしっかり飲みつつ自己コントロールができれば、躁うつ病も安定する可能性は十分ある」というポジティブな結論を、メディアは出したいように見えます。実際この結論自体本当といえば本当なのですが・・・当事者の私としては「受け入れ」と「薬」など、病気の治療の第一段階にすぎない気します。「自己コントロール」など、元から信じていませんし。

もちろん個人差はありますが、私はわりと早く自分の病気を受け入れ、薬をしっかり飲むようになりました。一般的にそれで「良くなる可能性が十分」あるはずなのに、気持ちとしてはただ第一段階をクリアした、という感じで、その後何年たっても核心的な問題自体は解決しないままな気がします。

その核心問題というと・・・まず、いくら薬をちゃんと飲んだとしても、自分に合う薬は見つけるのは無理に近いことです。何度も薬を変更したあげく、結局先生は精神安定剤で軽うつ状態を維持することでとどまっています(これでは、激うつや激躁にならなくても、社会参加をできるほどの回復はできません><)本などを読むと「合う薬を見つけるのは大変ですが、見つけたらほぼ必ず安定します」と、この問題に触れていることは触れているのですが・・・合ってる薬を結局一生見つからなかった人だって、いると思うんですが、そういう人は一体どうすればいいんでしょう?このような本の著者は、その可能性にはあまり着目しません。

もう二つ似通った核心問題は、「病気は受け入れるだけで、病状が安定するわけではない」ということと「自己コントロールって、実はできない!」ということです。とっても単純化していますが、病気を受け入れる過程も自己コントロールの過程も、「しっかりした論理で感情の乱れを正す!」ということだと思います(これほど単純化すると、精神論に聞こえなくもないですが(汗)もうちょっと具体的に説明します:

私にとって感情障害とは「力関係が反転して、心の狂いが頭の正常な働きよりパワーを持ってしまうこと」、だと思います。だから、いくら頭で自分の障害を整理したり論理づけたって、感情障害の強さには勝ち目がありません。これは私が個人的に躁うつ病を経験して感じたことですが、現代文学などでも「正常さ」と「狂気」を比べてみると、狂気の方が圧倒的に強度があると思われているようです。だから今かなり評価されている「認知療法」や「自己コントロール」も、私はちょっと半信半疑です。

・・・しかし、健常な人がこれを最適な治療法として提案するのは、納得できます。正常な論理展開を崩してしまうほどの激しい感情の乱れを、経験したことがないのですから。

ちなみに、当事者VS健常者、と単純に分けてしまうのは、逆差別のようであまり良くないと、分かってはいるんですが・・・躁うつ病の正しい問題意識と、それに基づいた正しい治療法を見つけるにあたって、この区別は不可欠だと思うんです。いくら(上記の私みたいに)当事者が一般的考えを批判し、自分の考えを持とうとしたって、結局それが一方的に健常者の考えに基づいていれば、結論としては当事者の心境・要望とは少しずれたものになってしまうからです。

このずれは主に、私たちと健常者の心理状態の違い(具体的には感情の強度の違い)からきていると思います。健常者は「(良かれ悪かれ)正常な精神状態」だし、私たちは逆に「(良かれ悪かれ)正常を超えた精神状態」なのだから、心理状態の理解や捉え方、精神病の症状に対しての許容範囲も違ってきます。つまり、健常者は自分の(正常ながら)狭い許容範囲に基づいて私たちの問題を捉えるほかないのだから、自分が精神的に耐えられるぐらいの提案しかできないんだと思います。例えば1)ポジティブで希望がある提案(例えば、合う薬が見つければ、ほぼ状態が安定する薬物療法)や2)ネガティブでも、あまり自分が責任をもたなくていい、加わらなくていい、というような提案(患者が一人で行う、少々つらい自己コントロール)を、無意識的に薦めてしまう傾向があると思うんです。弊害が本質的なほど、つまりそれほど絶望的な問題に取り組むことになればなるほど、精神力・許容範囲ももたないと思うんです。だから、空っぽながらも希望がもてる、「ずれた」観点から私たちの問題を捉えると思うんです。

(ちなみにここで私が「メディア」や「躁うつ病者」の著者全員が健常者であり、その健常者全員が精神病に無理解であり、基本的に許容範囲が狭い、というひどい単純化をしているようですが、ただ「薬」とか「自己コントロール」というドライな問題意識・治療法は、健常者的な考えからきてそうだなあ、と、私の感覚的な印象から書いているだけですので。必ずしも断定できることではないと分かっているので、ご了承くださいな(^^;)

ええ、とにかく私が結論として持ち出したい疑問が:もしも躁うつ病者が躁うつ病者のためにこの病気に対して問題意識をもって、治療法についても考えたら、どういうものが生まれるだろう?ということです。

私の意見としては、自己コントロール、認知療法や薬など「孤独」でやり、一方的に健常者が患者を治療するものではなく、健常者も含めて、「みんな」でおたがいのためになる治療をする、と思います。多分躁うつ病者の性質として、自分のやっかいな病気に他者を巻き込むことなど、絶対できないと思います。なので、「みんな」の交流を深めるとしたら、社会的にも精神的にも安定している健常者が、ます最初に私たちに手をさしのべてもらわないと、始まらないことだと思います。躁うつ病者の役目は、健常者が「狂気の世界(笑)」へ踏み込む勇気をもてるよう、彼らの精神的な許容範囲を伸ばすための交流・教育を心がけることだと思います。健常者が当事者に対しての理解を深めれば、もっと踏み込んだ治療法に取り組むこともできるだろうし、躁うつ病者としては、社会の主なメンバーである健常者の方からもうちょっと踏み込んだ関係を求められ、理解を深める努力をしてもらえれば、孤独からも少し解放され、それ自体が社会参加につながるような治療になると思います。私のこの理想図は、この頃話題になっている「対人関係療法」にちょっと近いものだと思いますが(^^;)

・・・でも理想的な治療というのが見出せても、やはりそこへたどり着くために解決しなければならない、本質的な問題があります。それは健常者が「理解の範疇を超えた」私たちの世界に足を踏み入れる必然性を感じてくれるかどうかです。社会参加が自力でできる健常者にとって、私たちに必要以上に干渉する必然性は、今の時点であまり感じていないでしょう。(理解できないほど狂った世界が死ぬほどこわい、って言うのもありますし)でも長い目で見ると健常者としても、社会全体としても、今孤立して無視されている「狂気の世界」を理解しようとするのは、絶対必要なことだと思います。精神的な許容範囲を広めるというのは、人間性を豊かにするためにも、社会をもっとハッピーにするにも、とっても大事なことだからです。(まず私たち躁うつ病者をハッピーにするためにも(笑)だから、科学(薬)とかロジック(認知療法、自己コントロール)みたいになんだか距離を置いた治療法を追求するよりも、自分の安定・正常レベルを少々乱してでも、私たちともっと親密な交流関係を持ち、そうゆう風に躁うつ病に取り組んで欲しいな、と思います。

・・・ほんと長くなってすみません(汗)まとまってなくって日本語もおかしいし読む気しないだろうし(汗汗)別に読まなくていいです、ただなかなか寝付けなかったんでだらだら書いてただけですから(−−;)内容自体は、もっとまとまってれば、とっても興味があることなんだけど。では、もう朝になってしまったので、寝ます(いまから笑)おはよう、そしておやすみなさいー(^^)ノ

−りさ

(相談掲示板に書いたけど、これって結局何の相談なんだ?笑

「みなさんも躁うつ病の一般的知識と、当事者の実際の考え・気持ちとのギャップを感じますか?そのギャップは、どう狭めていけばいいのでしょう?」

という感じでしょうか。この書き込みは、その疑問に対しての私の意見です^^)

・・・でも実際は「眠れないのでだらだらと掲示板に要らぬことを書いてしまいます。どうしましょう?」って相談かも(笑)では♪

りさ 2010/12/19(Sun) 09:24 No.131
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