精神障害と身体障害、その相違

私は今障害者スポーツセンターという施設を利用しているんだけれど、

身体障害者も精神障害者も、もちろんいて、

あまり話さす機会のない身体障害者の方とお話ししていると、
同じ「障害」と呼ばれていても性質の違う所や考えたことがなかった接点とかあって、それについて興味を持ち始めた。

身体障害者の方と話して始めに感じたことは、うらやましさだった。一面的な考え方かもしれないけれど、その人は自分が障害を担っていることについてショックやひどい落ち込みを感じるだろうが、精神自体には私のように「支障」をきたしてないわけだから、その鬱状態・トラウマ・コンプレックスを一山乗り越える希望は、私よりもてるものな気がした。

でも私の場合は、精神自体に「障害」があるわけだから、それに関しての二次的なショック等を乗り越えようとしても、堂々巡りのように、一山の次の一山、波の次にもう一波のように、悪循環から抜け出せないような気がする。

もちろん一面的な私の第一印象で、そう単純化して区別できることではないとは認識しているけど、

確かに精神障害と身体障害には自覚すべき接点や、興味深い違いなどがあると思う。あんまり考えたことなかったら、なんだか考え始めたら興味深かった。

例えば、精神障害は「見えない」病気と呼ばれていて、それがデメリットのようにいつも私は感じていたけど、「見える」病気である身体障害者の悩みやつらさ、二つの病気の性質の相違は、いかなるものなのだろう。私は本音を言うと、理屈抜きに、というか感覚的に、「見える」病気を担うこともとても怖い。その怖さの根底などが何なのかも、考えてみたい。

「悩み」ではないけれど、みんなで考えていきたいなあと思ったことなので、ここに載せておきます。

(私は前から躁うつ病の一番特徴的な二次的症状が「周りの無理解」や「孤立」だと思っていた。そうゆう意味で、身体障害者も同じなのかもしれないな、大きい接点となるかもしれない、と思った。



(「男女の躁鬱病者が社会に理解されず、おたがいに深い理解と愛情を見つける」なんていう小説があったら素敵だなあって考えたことあるけど、

精神障害者と身体障害のラブストーリーも、今までないもので、その愛情の根底や二人のつながりがどこからくるのか、考えるとおもしろい(^^へへ)

−りさ

りさ 2011/06/13(Mon) 16:23 No.223
Re: 精神障害と身体障害、その相違   なお
2011/06/22(Wed) 23:15 No.226
りささん、はじめまして。
興味ある話題ですのでレスさせていただきます。

ちなみに自分のことを話しておきますと、
私は片眼を失った「身体障害者」であり(ただし義眼を入れているので、事情を話していない人にはわからないようです)、
かつて躁鬱病(たぶんU型)と診断されていました。
「かつて」というのは、過去の復職時の調子の変化から主治医は躁鬱病であることを疑い、その後「適応障害」に診断名が変わりました。
自分としては、「躁鬱病」が基本に残っており、その上に「適応障害」があると見ています。
現在ではメンタル系の薬はたまに飲む睡眠薬を除いて、気分安定薬も抗うつ薬・抗精神病薬も全く飲んでいません。

以上が私の事情ですので、それを念頭に置いていただければと思います。

りささんの書かれた内容を読んでいますと、どうも考えておられることが頭の中の「イメージ」に偏っておられるように感じます。
身体障害者にせよ、精神障害者にせよ、考えなければいけないのは、どちらも「生活しなければならない」ということ。
従って、生活する上でどういう支障があり、どのようにしてそれらに対処していくか、ということを考えなければいけないと思います。

その観点から見ると、精神障害者、特に躁鬱病者の場合、身体的機能には支障がないので、気分さえ元に戻れば健康人(俗に言う普通)の生活が可能です。
でも身体障害者の場合、どのようにしても普通の生活は無理です。
私の場合、片眼を失っているということは、もはや取り返しがつきません。
永遠に片眼で元に戻ることはありません。
今では片眼でもある程度立体感もあり、それほど支障はありませんが、はじめの数年間は行進でもふらふらしてちょっと支障がありました。
それと私は強度の近視に乱視も併発していますが、それも残った目に負担がかかったが故であると思っています。

そのことを考えると
>その鬱状態・トラウマ・コンプレックスを一山乗り越える希望は、私よりもてるものな気がした。
と書かれていることは、自分の障害が一番苦しいと見られ、他の障害に関する想像力や理解がまだまだだなと感じました。

気分のコントロールさえできれば健康人とそれほど違わない生活ができる躁鬱病者と、もはや失ったものは取り返せない身体障害、その違いはどう思われますか?

>私は本音を言うと、理屈抜きに、というか感覚的に、「見える」病気を担うこともとても怖い。
私が想像するに、これはご自分が経験されてないが故の恐怖ではないかと思います。
自分が経験していれば、嫌でも受け入れざるを得ません。
一種の開き直りができます。

もっとも私の場合は、片眼といっても矯正視力で1.0くらいあり運転免許も持っているので、障害者手帳は取れないようです。
精神障害についても、2ヶ月以上メンタルな薬を飲まなくてもよい状態が続いており(もっとも去年も4ヶ月弱薬を飲まない状態が続いた後でむごい鬱に落ち込み、相当苦しみました→約半年波の差はあれ、鬱の状態でした)、元気な状態なので、今苦しんでおられるりささんに対するレスとしては不適切なものになっているかもしれません。

>男女の躁鬱病者が社会に理解されず、おたがいに深い理解と愛情を見つける」なんていう小説があったら素敵だなあって考えたことあるけど、
>精神障害者と身体障害のラブストーリーも、今までないもので、その愛情の根底や二人のつながりがどこからくるのか、考えるとおもしろい(^^へへ)
「障害者も健常者も生活していかなければいけない」という視点も交えると、よりいっそう深みが出るのではないかと思います。

不適切な点があれば指摘していただければと思います。
よろしくお願いします。
Re: 精神障害と身体障害、その相違   りさ
2011/06/23(Thu) 00:31 No.227
「もちろん一面的な私の第一印象で、そう単純化して区別できることではないとは認識しているけど」

と私は一応強調しておくために、このような段落を置きましたが、

全体的に私の書き込みが想像力が欠けた無知、及び無神経なものとなおさんが受け取ったのであれば、それはお詫びします。

デリケートなトピックだとは認識した上で、私の素直な第一印象を綴ろうと試みたのですが、今後はもう少し言葉を選んで、読み手を考えて書くよう努めます。

しかし私の見解としては、やはり「躁うつ病より身体障害の方が”いい”あるいは”楽”、」あるいは何か単純なイメージに還元しようとしたつもりはまったくなく、

デリケートなトピックながら、みんなで率直に、オープンに考えていくべきであろうことだと思った次第です。

なおさんは身体障害を「取り返しのつかない」という風に表現し、躁うつ病は「気分」さえ直れば・・・と表現していますが、

もちろんその体の障害自体は、取り返しのつけないものかもしれませんが、果たして「精神」の修復は、取り返しがつかないと言い切れるのでしょうか。

実はこの親記事を書いた晩、私は身体障害者で、とても前向きな、とても精神的に芯の強い方とお友達になって、彼は普通に五日制の会社に通い、残業もこなし、同僚や上司に信頼されている、とのことでした(仕事が増えるから、困るほどだよ、とのことで笑)

その衝撃的な出会いの上で、上記の私の「第一印象」を綴ったかぎりです。もちろん同じ身体障害者でも、生活面で個々によって大きな違いがあることは認識しています。

私はなおさんが言うように、精神障害者と身体障害者の「違い」より、むしろ「接点」(なおさんの例で言いますと、「生活しなければいけない」こと等)について強い興味を抱いています。

その中で、社会的に染みついてしまった表面的な「イメージ」(私の「見える」病気についての怖れ等)も素直に分かち合うことが過程的な意味で大事だと思います。接点のある人々の間にある表面的な境界線を乗り換えるため、という点では。

それを言った上で、なおさんの「気分が直れば・・・健常人の生活が可能」という「イメージ」は、多少ひっかかります。理屈としては正しいと思いますが、躁うつ病は実質上「慢性病」であり、例えば身体障害を「体の慢性病」と呼ぶとすれば、躁うつ病は「精神の慢性病」であり、

「どちらが生活的にもっと有利か」などに重点をあてるよりかは、その表面的な違いの裏の、本質的な接点について追求していきたいと私個人は感じています。

例えば、なおさんが触れました「適応障害」。これは言葉を換えますと、身体、あるいは精神障害の「二次的症状」と呼べると思いますが、私はこれに本来の病気よりも苦しんだ面があります。具体的に言いますと、病気により「二次的なひきこもり状態」に陥り、生活が成り立たなくなることです。

なおさんが「生活をしなければいけない」という概念を身体と精神障害の接点として捉えるのは、とても興味深いことだと思います。これを「社会参加」と言い直しますと、私は、精神も身体障害も「社会から外れた」立場にいると信じており、社会参加ができない、という障害を乗り越えることが本質的な人生の目標なのか・・・あるいは、本来の自分の自然な形を逆に社会が受け入れるべきか。本質的に「取り返しのつかない」要素により社会から外れているのであれば、厳密な「社会参加」以外の生活は望めるのか。

とても興味深いテーマでありながら、とてもデリケートなテーマなので、私としては中立的な立場から、どっちが良いどっちが悪い、身体はこうゆうイメージ精神はこうゆうイメージ、などの単純化はさけ、それらの表面的なもの下に潜む本質的な接点をさぐりだすことに強い興味をもっています。その面だけ、誤解を解消したいかぎりです。

ちなみに私の親友は、目の障害を担っています。なおさんと似ている面があり、片目からしか目が見えず、焦点が合いません。彼はそのコンプレックスを乗り越えるためにとてもつらい思いをし、結果としてうつを発病してしまいました。なので私が軽薄にも「身体障害はコンプレックスを乗り越えるのが精神障害より簡単だ」などと宣言したかったわけでは、まったくありません。

実は彼は最近、「世界、僕の左目を通して(Life Through my Left Eye)という自伝を書いて、出版しようとしています。彼は彼なりに、自分の障害と向き合う方法を見つけて、私はとっても嬉しいし、正直やっぱり羨ましいです(笑)コンプレックスを乗り越えるというのは、障害の類は関係なく、個々によってタイミングが異なるのかもしれませんね。

ちなみに「目の障害」というのは「精神の障害」と等しい、あるいは似つかわしい面があると私は感じます。「目に心が映る」と言いますし、その表現には真意が含まれていると思います。

でも、一番人間的なものを、コンプレックスや生活的困難を通じて痛感してきた人々こそ、逆にその人間性を一番理解し寛容的に受け止める力を得られるような気がします。だから、私はこの病気を「運命的」あるいは「取り返しの付かない」と信じていますし、その場合に備えて覚悟は持っていますが、それらをすべて否定的に受け止めていませんし、逆に私の人格にとって必然的であり、その上良いことだと感じています。

レス、ありがとうございます。自分の考えをもう少しだけ整理できたような気がします(読む人にとっては、くり返しが多くて冗長で整理がなっていないと感じられるかもしませんが汗)

しかし、人とデリケートなトピックについてお話するかぎりは、相手の解釈や自分の言葉の選び方に気をつけるよう、努めます。

ありがとうございました。では。

-りさ
Re: 精神障害と身体障害、その相違   だい
2011/06/29(Wed) 05:11 No.231
おはようございます。
  くしくも、私には30年以上の交友歴がある身体障害者(1級)の親友が一人います。(既婚)彼は、一目瞭然の脳性麻痺身体障害者で、歩行・腕・手・脊髄等に障害があります。
彼との交友歴と、自分の一時期のスポーツ障害(アキレス腱半切断)の経験から、

相違は、一言で言うと『寛解』があるか無いかです。

しょせん、病気・障害の本当の辛さは、本人でなければ解らないとも思ってます。
  出勤前なので、短くレスしました。
Re: 精神障害と身体障害、その相違   なお
2011/06/22(Wed) 23:15 No.226
りささん、はじめまして。
興味ある話題ですのでレスさせていただきます。

ちなみに自分のことを話しておきますと、
私は片眼を失った「身体障害者」であり(ただし義眼を入れているので、事情を話していない人にはわからないようです)、
かつて躁鬱病(たぶんU型)と診断されていました。
「かつて」というのは、過去の復職時の調子の変化から主治医は躁鬱病であることを疑い、その後「適応障害」に診断名が変わりました。
自分としては、「躁鬱病」が基本に残っており、その上に「適応障害」があると見ています。
現在ではメンタル系の薬はたまに飲む睡眠薬を除いて、気分安定薬も抗うつ薬・抗精神病薬も全く飲んでいません。

以上が私の事情ですので、それを念頭に置いていただければと思います。

りささんの書かれた内容を読んでいますと、どうも考えておられることが頭の中の「イメージ」に偏っておられるように感じます。
身体障害者にせよ、精神障害者にせよ、考えなければいけないのは、どちらも「生活しなければならない」ということ。
従って、生活する上でどういう支障があり、どのようにしてそれらに対処していくか、ということを考えなければいけないと思います。

その観点から見ると、精神障害者、特に躁鬱病者の場合、身体的機能には支障がないので、気分さえ元に戻れば健康人(俗に言う普通)の生活が可能です。
でも身体障害者の場合、どのようにしても普通の生活は無理です。
私の場合、片眼を失っているということは、もはや取り返しがつきません。
永遠に片眼で元に戻ることはありません。
今では片眼でもある程度立体感もあり、それほど支障はありませんが、はじめの数年間は行進でもふらふらしてちょっと支障がありました。
それと私は強度の近視に乱視も併発していますが、それも残った目に負担がかかったが故であると思っています。

そのことを考えると
>その鬱状態・トラウマ・コンプレックスを一山乗り越える希望は、私よりもてるものな気がした。
と書かれていることは、自分の障害が一番苦しいと見られ、他の障害に関する想像力や理解がまだまだだなと感じました。

気分のコントロールさえできれば健康人とそれほど違わない生活ができる躁鬱病者と、もはや失ったものは取り返せない身体障害、その違いはどう思われますか?

>私は本音を言うと、理屈抜きに、というか感覚的に、「見える」病気を担うこともとても怖い。
私が想像するに、これはご自分が経験されてないが故の恐怖ではないかと思います。
自分が経験していれば、嫌でも受け入れざるを得ません。
一種の開き直りができます。

もっとも私の場合は、片眼といっても矯正視力で1.0くらいあり運転免許も持っているので、障害者手帳は取れないようです。
精神障害についても、2ヶ月以上メンタルな薬を飲まなくてもよい状態が続いており(もっとも去年も4ヶ月弱薬を飲まない状態が続いた後でむごい鬱に落ち込み、相当苦しみました→約半年波の差はあれ、鬱の状態でした)、元気な状態なので、今苦しんでおられるりささんに対するレスとしては不適切なものになっているかもしれません。

>男女の躁鬱病者が社会に理解されず、おたがいに深い理解と愛情を見つける」なんていう小説があったら素敵だなあって考えたことあるけど、
>精神障害者と身体障害のラブストーリーも、今までないもので、その愛情の根底や二人のつながりがどこからくるのか、考えるとおもしろい(^^へへ)
「障害者も健常者も生活していかなければいけない」という視点も交えると、よりいっそう深みが出るのではないかと思います。

不適切な点があれば指摘していただければと思います。
よろしくお願いします。
Re: 精神障害と身体障害、その相違   りさ
2011/06/23(Thu) 00:31 No.227
「もちろん一面的な私の第一印象で、そう単純化して区別できることではないとは認識しているけど」

と私は一応強調しておくために、このような段落を置きましたが、

全体的に私の書き込みが想像力が欠けた無知、及び無神経なものとなおさんが受け取ったのであれば、それはお詫びします。

デリケートなトピックだとは認識した上で、私の素直な第一印象を綴ろうと試みたのですが、今後はもう少し言葉を選んで、読み手を考えて書くよう努めます。

しかし私の見解としては、やはり「躁うつ病より身体障害の方が”いい”あるいは”楽”、」あるいは何か単純なイメージに還元しようとしたつもりはまったくなく、

デリケートなトピックながら、みんなで率直に、オープンに考えていくべきであろうことだと思った次第です。

なおさんは身体障害を「取り返しのつかない」という風に表現し、躁うつ病は「気分」さえ直れば・・・と表現していますが、

もちろんその体の障害自体は、取り返しのつけないものかもしれませんが、果たして「精神」の修復は、取り返しがつかないと言い切れるのでしょうか。

実はこの親記事を書いた晩、私は身体障害者で、とても前向きな、とても精神的に芯の強い方とお友達になって、彼は普通に五日制の会社に通い、残業もこなし、同僚や上司に信頼されている、とのことでした(仕事が増えるから、困るほどだよ、とのことで笑)

その衝撃的な出会いの上で、上記の私の「第一印象」を綴ったかぎりです。もちろん同じ身体障害者でも、生活面で個々によって大きな違いがあることは認識しています。

私はなおさんが言うように、精神障害者と身体障害者の「違い」より、むしろ「接点」(なおさんの例で言いますと、「生活しなければいけない」こと等)について強い興味を抱いています。

その中で、社会的に染みついてしまった表面的な「イメージ」(私の「見える」病気についての怖れ等)も素直に分かち合うことが過程的な意味で大事だと思います。接点のある人々の間にある表面的な境界線を乗り換えるため、という点では。

それを言った上で、なおさんの「気分が直れば・・・健常人の生活が可能」という「イメージ」は、多少ひっかかります。理屈としては正しいと思いますが、躁うつ病は実質上「慢性病」であり、例えば身体障害を「体の慢性病」と呼ぶとすれば、躁うつ病は「精神の慢性病」であり、

「どちらが生活的にもっと有利か」などに重点をあてるよりかは、その表面的な違いの裏の、本質的な接点について追求していきたいと私個人は感じています。

例えば、なおさんが触れました「適応障害」。これは言葉を換えますと、身体、あるいは精神障害の「二次的症状」と呼べると思いますが、私はこれに本来の病気よりも苦しんだ面があります。具体的に言いますと、病気により「二次的なひきこもり状態」に陥り、生活が成り立たなくなることです。

なおさんが「生活をしなければいけない」という概念を身体と精神障害の接点として捉えるのは、とても興味深いことだと思います。これを「社会参加」と言い直しますと、私は、精神も身体障害も「社会から外れた」立場にいると信じており、社会参加ができない、という障害を乗り越えることが本質的な人生の目標なのか・・・あるいは、本来の自分の自然な形を逆に社会が受け入れるべきか。本質的に「取り返しのつかない」要素により社会から外れているのであれば、厳密な「社会参加」以外の生活は望めるのか。

とても興味深いテーマでありながら、とてもデリケートなテーマなので、私としては中立的な立場から、どっちが良いどっちが悪い、身体はこうゆうイメージ精神はこうゆうイメージ、などの単純化はさけ、それらの表面的なもの下に潜む本質的な接点をさぐりだすことに強い興味をもっています。その面だけ、誤解を解消したいかぎりです。

ちなみに私の親友は、目の障害を担っています。なおさんと似ている面があり、片目からしか目が見えず、焦点が合いません。彼はそのコンプレックスを乗り越えるためにとてもつらい思いをし、結果としてうつを発病してしまいました。なので私が軽薄にも「身体障害はコンプレックスを乗り越えるのが精神障害より簡単だ」などと宣言したかったわけでは、まったくありません。

実は彼は最近、「世界、僕の左目を通して(Life Through my Left Eye)という自伝を書いて、出版しようとしています。彼は彼なりに、自分の障害と向き合う方法を見つけて、私はとっても嬉しいし、正直やっぱり羨ましいです(笑)コンプレックスを乗り越えるというのは、障害の類は関係なく、個々によってタイミングが異なるのかもしれませんね。

ちなみに「目の障害」というのは「精神の障害」と等しい、あるいは似つかわしい面があると私は感じます。「目に心が映る」と言いますし、その表現には真意が含まれていると思います。

でも、一番人間的なものを、コンプレックスや生活的困難を通じて痛感してきた人々こそ、逆にその人間性を一番理解し寛容的に受け止める力を得られるような気がします。だから、私はこの病気を「運命的」あるいは「取り返しの付かない」と信じていますし、その場合に備えて覚悟は持っていますが、それらをすべて否定的に受け止めていませんし、逆に私の人格にとって必然的であり、その上良いことだと感じています。

レス、ありがとうございます。自分の考えをもう少しだけ整理できたような気がします(読む人にとっては、くり返しが多くて冗長で整理がなっていないと感じられるかもしませんが汗)

しかし、人とデリケートなトピックについてお話するかぎりは、相手の解釈や自分の言葉の選び方に気をつけるよう、努めます。

ありがとうございました。では。

-りさ
Re: 精神障害と身体障害、その相違   だい
2011/06/29(Wed) 05:11 No.231
おはようございます。
  くしくも、私には30年以上の交友歴がある身体障害者(1級)の親友が一人います。(既婚)彼は、一目瞭然の脳性麻痺身体障害者で、歩行・腕・手・脊髄等に障害があります。
彼との交友歴と、自分の一時期のスポーツ障害(アキレス腱半切断)の経験から、

相違は、一言で言うと『寛解』があるか無いかです。

しょせん、病気・障害の本当の辛さは、本人でなければ解らないとも思ってます。
  出勤前なので、短くレスしました。
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